かみなし子こんにちは

取り留めなくおんなひとりの生活をつらつらと

かみなし子こんにちは

今日は3.11

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人生に疲れ気味。

かみなし子だよ。

 

3.11を祝う

ブログフィードやTwitterのタイムラインが大震災や復興一色になるのかと思っていたけれどそこまででもなかった。みんな日常を生きている、365日の中の1日を生きている。わたしが一番伝えたいことは何かしら、と考えたとき、悲しみや教訓を「忘れない」ということもさながら、同じ日に新たに生まれた記念日やおめでたいことを「祝おう」ということだった。

 

だって、歴史上の日付なんて存在するものだ。地震で言えば9.1、1.17、4.14。他にも数え切れない。

毎年、思い出すことも大事なのではあるが、当時の記憶を辿るとその日が誕生日だった同級生は「自粛」ムードの中、ばつの悪そうな表情をしていた。

 

たしかに多くの命が奪われた、悲しかった。今も悲しい、やることをやらなくちゃいけない。でもその日に産まれた命もある。結婚したり、新たに何かを始めた人がいる。

 

その人たちのために、これからのわたしたちは、無条件で手放しにお祝いするということも大事なのではないかと思う。誕生日は全存在を肯定する日と、わたしは勝手に定義している。

 

それが7年目の、そして、これからの3.11を生きることではないか。

 

黙祷のためにNHKのラジオから流れる式典の様子を聞いていたら、ニュースに切り替わったときの1つ目がこれだった。

https://www.jomo-news.co.jp/news/gunma/society/38130

カピバラかわいいよカピバラ。

 

かみなし子の2011.9.11

上記で内容は大体終わりである。余談だが自分の「その時」は何していたか。誰も興味はないだろうが自分の記憶の整理として。オチもない。

 

就職せず、春休みで実家に居座り続けることの閉塞感を感じて、一人旅を敢行するために西日本に飛び出した。同級生は就職して卒業旅行に付き合ってくれる人はいなかった。青春18きっぷやフェリーを乗り継ぐ計画。開通する九州新幹線にも。九州最南端のJRの駅がゴールだった。東日本も同等に候補として考えた。東北地方は昔から行きたかった場所だったが、「寒いから」という理由で、西。バックパックを背負い、1日の食費は1000円、ネットカフェに泊まるような生活、もう二度とやらないと思う、でも気分が高揚する毎日だった。

 

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その時間は、時刻表を睨んでいたのか寝ていたのか、四国は愛媛県の乗換駅を乗り過ごした。一駅の距離も時間も長く、次の電車は1時間後。伊予西条という駅だった。手持ち無沙汰なので関東の家にいる母に電話をしていた。「揺れが大きくてテレビが倒れそうだから切る」と、不安にさせる会話の終わり方だった。

 

友人は1時間以上かけて東京に働きに出ている。先に諦めてホテルを取ったり居酒屋で過ごしていたなんて耳に入った。金曜の午後。自分に何ができるわけなく、太平洋は全て津波警報が出て、八幡浜から大分は臼杵にフェリーを計画していたが進路も絶たれた。松山市のカプセルホテルでずっとテレビを見ていた。津波や火事の映像を目に入れるしかなった。CMはどんどん取りやめられていった。速報のチャイムが鳴り響いていた。SMSや電話は次第に繋がらなくなった。それでも同級生とのTwitterは繋がっており、声は鮮明に聞こえた。デマも多かったけれど。もうあの頃のアカウントは削除したので、彼らとTwitterは繋がっていない。

 

地元は輪番停電の対象でもあり、結果的に、このまま一人旅を続けた方が気楽でいい、と家族も同意したのでそのまま旅は続けた。松山駅のマックで再び時刻表や交通情報をにらめっこし、新居浜まで出て広島に出た。その時の瀬戸内海は当たり前に静かなのに驚いた。ちょうどフェリーの中のテレビは福島第一の大ニュースを流していたと思う。その後問題は悪化することなど頭が悪くて分かっていなかった。全部で10日超の行程を楽しんだ。行く先々で関東から来たと言うと、大丈夫か、という言葉をかけられた。実際に西日本にいると、大丈夫、としか思えなかった。

 

帰宅したら、電気がつかず寒い自宅に狼狽した。真っ暗な銀座は自分の記憶でその時が最初で最後だった。

 

余震も含めて地震はほとんど体感しなかった。阪神大震災の頃は九州にいた。熊本のときは東京にいた。東日本のときは四国。

大したことは書けないけれど、彼の記事が心に残る。

ゆれをしらない。 - 車で気仙沼まで行く。 - ほぼ日刊イトイ新聞

あの後も何度か東北には行っている。また行きたいと思う。正直寒いのは苦手なので、また暖かくなったら。

 

今の部屋の有様を見れば防災なんざ何も学んでいない。東北の色んな方の話を聞いたが、その場は涙しても、「亡くなった方のためにも生きよう」という気持ちも起きてこない。いざ同じ状況になってから、うろたえて、悲観して、また行動しない。ダメな人間になることは想像に容易い。そして後悔するんだろう。


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明日は3.12。当たり前に日付は進んでいく。来年の今頃何を書いているかなど想像もできないけれど、「会社やだなぁ」なんてつぶやきながら、わたしの日曜日は終わっていく。